俳優 - 競馬の真骨頂

俳優・渡辺謙 すべてを捨てたから、魂でぶつかりあえた

 2003年に公開された映画『ラストサムライ』に出演した渡辺謙は、同年度、アカデミー賞助演男優賞、ゴールデングローブ賞助演男優賞にノミネートされ、国際俳優として一躍脚光を浴びた。主演のトム・クルーズは、「名誉を重んじ、信じるもののためには死を恐れないサムライ。その魂を、謙の中に見ていた」と語り、共演者への称賛を惜しまなかった。

 ハリウッドへ本格的に乗り出した渡辺はロサンゼルスに住居を構え、大作への出演を次々に実現していった。

 渡辺の代表作となった『ラストサムライ』だが、それ以前の彼が、自らのキャリアのすべてを捨て去る覚悟でいたことを知る者は少ない。

 「42歳でハリウッドへ行く前、それまでのキャリアも演技のスキルも、まったくゼロにして、オーディションを受けたんですよ。朝の連ドラとか大河の主役とか、プロフィルに書いても、向こうでは何の意味もない。彼らにとって、僕は、見ず知らずの日本人役者に過ぎない。もう新人と同じわけですよ。実際、こいつ、なんぼのもんじゃい、というところから始まりました」

 なぜ渡辺が、日本での地位や実績を潔く手放したのか。そこには、病の闘いとその後の役者としての蹉跌(さてつ)があった。

 1987年、28歳で、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で伊達政宗を演じた渡辺は、国民的な人気を得てテレビや舞台の仕事を増やしていった。ところが、89年、何の前触れもなく急性骨髄性白血病を発症する。カナダで初の主演映画を撮影中の彼は、当然、降板を余儀なくされた。

 「唐突な医師からの宣言に呆然(ぼうぜん)としたんですが、病気を克服し生還するための選択肢は限られていたので、むしろ、思い悩む暇もなかったんですよ」

 1年後には仕事場に返り咲いた渡辺だが、完治のための治療は継続せざるを得ず、俳優活動は制約を受けた。発病から4年後、ようやく完全復帰を果たしたが、その1年後に再発。2度目の発症後も渡辺は冷静だった。事実を受け入れ病気と闘うことに専念すると、1年後には仕事に戻ることができた。

 しかし、白血病を克服した渡辺には、病魔を乗り越えた役者という安直なレッテルが張られた。美談として報じられる一方、仕事ではある支障をきたしていった。

 「ドラマや映画の製作者側も、病気のことがあるから僕をキャスティングしにくかったでしょうね。事実、長期ロケのある作品には声がかからなくなった。さらに、何をやってもつきまとう病気のイメージは簡単には払拭できませんでした」


トム・クルーズとも一対一で向き合えた


 20代から30代初頭には引きも切らなかった主演のオファーが遠のくと、30代後半からは悪役や異色のキャラクターなど、脇役を演じていった。都落ちとささやく者もいたが、主役・正義漢から離れ、際だった個性を演じることに、彼は快活さを覚えていた。

 2002年、『ラストサムライ』のオーディションの話が持ち込まれると、躊(ちゅう)躇(ちょ)なく受けることを決めていた。日本での実績などまるで鑑みられることのない状況こそが、彼を奮い立たせていたのだ。

 「キャリアを築くことは大事ですが、それを守るようになると、新しい場所へ飛び込む勇気は失われていきます。また、自分のポジションだけを気にして周りの対応に神経を使うことになる。それって、演じる者には悪果でしかないですからね」

 渡辺の心には、映画に初出演した頃の記憶が蘇(よみがえ)っていた。

 「まさに、『瀬戸内少年野球団』の撮影を振り返っていたんですよ。初めて行った京都の撮影所で、厳しいスタッフは『なんやこいつ。ひょろっとして、へんてこりんな奴(やつ)やな』と、あいさつもしてくれない。新人でへたくそな僕は身を固くして、愚直に演じるしかなかった」

 すると数日後に、顔を覚えてくれた撮影部や照明部、音声部のベテランたちが声をかけてくれるようになった。そこには「世界の宮川」と呼ばれたカメラマンの宮川一夫がいた。

 「あの宮川さんが、撮影の合間に『どうや、調子はええか』と、話かけてくれ、さらに1週間後には『謙ちゃん、なかなかええで』と、肩を抱いてくれた。つまり、作品を創(つく)る現場は肩書や過去の実績じゃないんですよ。今そこにある魂が触れ合えるかどうか、それに尽きる」

 ハリウッド作品のオーディションに、一介の役者として臨んだ渡辺は、その頃の気持ちを取り戻していた。

 「傷つくプライドなんて端(はな)からありませんよ。誰にも守られない環境で、俺はどこまでいけるのか、俺は何がやれるのか、と突きつけられた。そこではもう、一人の人間と人間がぶつかりあっていくしかない。それがすごく楽しかったんです」

 目前に現れたトム・クルーズの姿にも、渡辺は心を動かされた。

 「トムは、世界最大のエージェントに入り、映画市場を動かせる立場にある。けれど彼は、マネジャーも連れずに、1人でリハーサルにやって来ました。僕たちは映画のシチュエーションのまま、一対一で向き合うことができたんです」


いつかこんな田舎は飛び出してやる

  

 ゼロからのスタートを渡辺が求め、享受できたのは、その原点とも無関係ではない。渡辺は新潟県北魚沼郡広神村(現魚沼市)の美しい自然に育まれた。

 「あの地で育ったことを、この年になって感謝しています。古きよき日本の原風景みたいなものが、僕の中で今、生かされている気がするんですよ」

 田舎に育ったからこそ感じられる心の機微が、確かにある。

 「例えば、『硫黄島からの手紙』で演じた栗林中将は長野の出身。寒冷地から中央をみているという目線は、新潟出身の僕にも共感できました。さかのぼれば、伊達政宗をやったときも彼の見た景色を想像しましたね。政宗の出は山形の米沢。雪にとざされる冬は、低い雲が山にかかって、空が見えないわけです。そんな中で、政宗は中央からの情報を気にして、今は何もできないことにいらだち、その状況を打開する情熱を抱き続ける。中央にいないことの焦りと、今ある状況を一変したいと強く願う気持ちは、地方の者として想像できました」

 だが、渡辺が物心つく頃には、閉塞(へいそく)感と都会への憧れが彼の心を満たしていた。

 「ガキの頃は、『こんな田舎』と思っていましたよ。山に囲まれている自分は、何も持っていないけれど、いつか何かをつかむんだと、この地を出た後の自分を夢見ていました」

 渡辺の両親は、地元の教師だった。

 「田舎の教師の子供ってすごくプレッシャーがあるんですよ。先生の息子という目で常に見られますから。今よりもずっと聖職者意識が強いから、子供へも重圧がかかる。僕自身、狭い籠の中にいる息苦しさはずっと感じていました。僕は次男坊だから、それでも割と自由でしたが、やっぱり新潟を飛び出すことばかり考えていたんです」

 高校では吹奏楽部に所属し、トランペットを吹いていた。

 「コンクールに出ても、他にうまいやつは大勢いて。才能は早々に見切っていました。プロになるなんて思えなかったけど、籠から抜け出す手づるにはなる、と思っていたかもしれません」

 実は演劇も、故郷を離れるための口実だった。

 「劇団に入って芝居をすると言えば、東京に出るしかない。本当に不謹慎ですが、最初は田舎からエスケープするための手段だったんです」

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【プロフィル】渡辺謙

 わたなべ・けん 1959年10月21日、新潟県生まれ。高校卒業後、演劇集団円で俳優のキャリアをスタート。NHK『独眼竜政宗』(87年)などに出演し、人気を得る。89年、急性骨髄性白血病を発症するも、1年間の闘病を経て復帰。その後、2003年の『ラストサムライ』や『硫黄島からの手紙』(06年)などのハリウッド作品にも進出した。国内でも『明日の記憶』(06年)などで日本アカデミー賞を受賞。(すべてを捨てて臨んだ『ラストサムライ』で新境地をひらいた=03年)

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【プロフィル】小松成美

 こまつ・なるみ ノンフィクション作家。第一線で活躍する人物のルポルタージュを得意分野とする。著作に『中田英寿 誇り』『勘三郎、荒ぶる』(幻冬舎)、『アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女』(角川書店)など。


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この人は本当に凄い人物だと思う。

映画ラストサムライは最高のできで日本人の武士の心、生き様など色んな事を教えてもらった。

今の日本人で最も日本人らしい俳優では無いかと私は思う。

今後の活躍に期待したい。



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