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【プロレス/コラム】愚直に…スタン・ハンセンの魅力

“不沈艦”スタン・ハンセンほど日本のファンに愛されたガイジン・レスラーはいない。
ハンセンの引退セレモニーが行われた2001年1月28日の全日本プロレス・東京ドーム大会には、5万8700人もの
ファンが会場に詰め掛け、その一言一句に涙した。おなじみの決めぜりふである「ウィー!」の大合唱とともに、
25年もの長い間、暴れまくった日本のリングから送りだされた感動のシーンこそ、ハンセンが日本のファンに愛され
続けてきた証拠といっていいだろう。

「日本のファンたちにこんなに愛していただいて誇りに思い、感謝したい。そして私は、そのファンに応えるために
常にベストな闘いを見せてきたつもりだ」

引退セレモニーの前日に行われた記者会見でハンセンはこんな言葉を残したが、
事実、不沈艦はどんなシチュエーションにおいても全身全霊のブルファイトを繰り広げてきた。

初来日を果たした1975年9月の全日本プロレス・ジャイアントシリーズでは本領を発揮できずに終わり、
ジャイアント馬場からは「馬力だけの不器用なレスラー」という評価を下されたハンセン。
その後、アメリカへと戻り、WWFマットでブルーノ・サンマルチノと抗争を繰り広げたが、
相手の首を負傷させ、「クラッシャー(壊し屋)」との不名誉な烙印まで押されてしまった。
そんなハンセンがレスラーとして生き残るための最後の道として選んだのが、アントニオ猪木率いる
新日本プロレス参戦だった。

1977年1月の新春黄金シリーズで新日本初参戦を果たしたハンセン。その初戦は、まるで彼を
査定するかのように猪木とのシングルマッチが組まれた。全日本やWWFなどさまざまなリングで
厳しい評価を下されていたハンセンにとって、文字どおり勝負どころとなったが、ここで不沈艦は、
査定という見方を吹き飛ばさんばかりのブルファイトで大熱狂を生みだした。

燃える闘魂がどんなに厳しい攻めを繰り出しても、ハンセンは一歩も引かず。不器用ながらに猪突猛進する、
泥くさいプロレスが新日本ファンの琴線を刺激。結果は反則負けに終わったが、それでもスタン・ハンセンと
いうレスラーを新日本マット、そして新日本のファンに刻み込むことに成功した。
以来、ハンセンは狂虎タイガー・ジェット・シンを越える存在感を発揮し、猪木のライバルとして君臨。
必殺技であるウエスタン・ラリアットを武器に、NWF世界ヘビーのベルトをその腰に巻くなど
数々の勲章を手にし、巨人アンドレ・ザ・ジャイアントとは歴史に残る名勝負(81年9.23田園コロシアム)
を繰り広げた。新日本プロレスに不沈艦は欠かせない。ファンの間にもそんな認識が浸透した1981年の暮れ、
ハンセンはある大きな決断をした。

全日本プロレスへの移籍である。

新日本と全日本はこのころ、熾烈な企業戦争を繰り広げており、その一つとして人気選手の引き抜きが横行した。
新日本は黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャーらを強奪し、ライバル団体の凋落をもくろんだが、
ジャイアント馬場率いる全日本も強烈にやり返した。ハンセン引き抜きはその最大工作であり、
最大の事件だったと言ってもいいだろう。

1981年12月13日、蔵前国技館。全日本の暮れの風物詩「世界最強タッグ決定リーグ」優勝決定戦。
大会直前の12月10日まで、ハンセンは新日本の「MSGタッグリーグ」に出場していた。ハンセン来場は
全日本内部においてもトップシークレットとされたため、団体上層部にしか、その事実は漏らされていなかった。
それだけに全日本のリングにハンセンが現れ、馬場らと大立ち回りを演じたことでファンが熱狂し、
会場が狂乱に包み込まれたことは言うまでもなかった。

燃える闘魂との闘いで新日本を活性化させたように、東洋の大巨人・馬場とハンセンの闘いは、
蔵前での乱入劇の影響もあって全日本の目玉カードとなった。このころ、馬場は年齢による衰えが
ささやかれていたが、東洋の巨人は、不沈艦のブルファイトに真っ向から応戦。全盛期をほうふつとさせる
力強いファイトで返り討ちにするなど、馬場復活をアピール。これ以外にもジャンボ鶴田や天龍源一郎ら
日本人選手にとって強大なライバルとなったハンセンは観客動員面だけでなく、刺激に乏しかった
王道マットの活性化にも一役買った。

そしてハンセンは、鶴田、天龍が去った後の、90年代の全日本においても大きな役割を担った。
三沢光晴、川田利明、小橋健太(現・建太)、田上明ら、のちに全日本プロレス四天王と呼ばれる
新世代レスラーの前にも、大きな壁として君臨。このころ、40代へと突入したハンセンにとって、
20代後半の若きレスラーと闘うことは体力的にも、精神的にもハードだったに違いない。
それでもハンセンは、愚直なまでに突進するブルファイトを貫いた。あくまでスタン・ハンセンで在り続けた。

だからこそハンセンは、ヒザの負傷のため満足のいく闘いができないと判断したとき、
潔くリングを去ることを決めた。きっと続けようと思えばプロレスを続けることはできただろうが、
それではスタン・ハンセンではなかった。大一番だろうが、地方会場だろうが、ケガをしてようが、
精神的に落ち込もうが、いつでもどこでも一生懸命のプロレスを見せる。ガイジン選手ではあるが、
まるで日本人のようなハートを持っていたからこそ、ハンセンはどのガイジン・レスラーよりも、
日本のファンに愛されたのだ。
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