【サッカー】モウリーニョはエトーの肥大した自尊心を押さえ込んだ - 競馬の真骨頂

【サッカー】モウリーニョはエトーの肥大した自尊心を押さえ込んだ

 昨シーズン、インテルの監督ジョゼ・モウリーニョがサムエル・エトーを先発からはずしたとき、このカメルーン人ストライカーは激怒した。サムエル・エトーをベンチに置いておける監督がいるなんて!

 エトーはチームマネージャー(たいした権限はない)に、モウリーニョと話をしたいと言った。マネージャーはポルトガル人監督に取り次ぎ、逆にエトーへのメッセージを預かってきた。

「モウリーニョにはきみと話す時間はない。起用法の話だとしても、時間はない。モウリーニョからは、こう伝えるよう言われた──納得できないなら出口はあっちだ」

 エトーの肥大した自尊心を、モウリーニョは押さえ込んだ。その後エトーは奮起し、チャンピオンズリーグのタイトルを勝ち取った。彼にとっては5年間で3度目のチャンピオンズリーグ制覇だった。

 今シーズンはそれほどうまく運ばないかもしれない。自尊心の強さとモチベーションの高さから、エトーは偉大なプレイヤーになった。だが同時に、扱いづらいプレイヤーにもなった。今のエトーはヨーロッパで最もホットな点取り屋のひとりだが、そのせいでモウリーニョの後任監督ラファエル・ベニテスと、さらに後任のレオナルドは、バランスのとれたチームづくりに苦しんだ。

 サムエル・エトー・フィス(友人たちは「フィス」と呼ぶ)は、人生は自分に何も与えてくれなかった、とよく言う。彼は1981年、カメルーンの首都ヤウンデに近い貧しい家に生まれた。13歳のころには「プロ」になり、小銭をもらって大人のチームでプレイしていた。「父親くらいの年の人たちを相手に試合をしていた。でも僕がチームの中心であることは、みんなすぐにわかった」

 エトーは生まれながらの天才だったばかりか、素晴らしいフットボール文化の申し子でもあった。1990年のワールドカップでカメルーンが準々決勝に進み、旋風を巻き起こしたとき、外国の専門家はカメルーン選手を「ナイーブ(素朴な、無邪気な)」と形容した。カメルーン人はフットボールを楽しんでいるだけで、勝つためにプレイしているわけではないという意味合いだ。人種差別が匂う表現である。しかしビッツ大学(南アフリカ)の政治学者アキレ・ムベンベに言わせれば、カメルーンのフットボール文化は非常に現実主義的で、ともかく結果にこだわる。

 エトーが数年前にバルセロナで子どもたちをコーチしたときも、慣れ親しんだ文化が言葉の端々に感じられた。「ボールを持っていないときこそ、いいプレイをするんだ」と、エトーは子どもたちに言った。確かにエトーは、いつもチームメイトのために走っていた。「守りも攻めも僕の仕事だから」と彼は言った。そのとおり、相手にボールが渡ると、エトーは前線で最初のDFになり、すぐにタックルを仕掛けた。

 しかも彼のゴールは、たいてい地味で面白みがない。右足のサイドキックで正確に流し込む。「それがいちばん安全だ」と、エトーは子どもたちに言った。統計を見ると、エトーは効率性の権化のようだ。彼ほどゴールの枠内にシュートを飛ばすストライカーはほとんどいない。

 エトーは14歳のとき、違法な形でパリに渡った。姉のアパートで隠れるように暮らしていたが、しばらくしてカメルーンへ帰ろうと決めた。このままいてもいいことはない。次は思いきりリッチになるためにヨーロッパに戻ってこようと、エトーは決心していた。

 15歳のとき、レアル・マドリードに入団するためスペインへ飛んだ。空港には出迎えがいなかった。エトーはスペイン語をひと言も話せなかったが、「苦労するのが当たり前だと自分に言い聞かせた」。彼は空港で最初に見かけた黒人を呼び止め、助けてもらった。

 レアルで人生が大きく好転したわけではなかった。レアルはスター選手をかき集めて「ガラクティコ(銀河系軍団)」をつくり上げたが、無名の若いアフリカ選手には目もくれなかった。

 エトーは17歳のときに98年のワールドカップ・フランス大会に出場し、その後4年間マジョルカでプレイした。だが、観光の島で稼ぐだけでは満足できなかった。「黒人らしく働いて、白人のようになってやる」が彼の口癖だった。エトーはゴールを決めつづけ、04年にレアルのライバルであるバルセロナに 2400万ユーロ(約32億円・当時)で移籍した。
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